
原作:魚豊
監督:入江信吾
制作:マッドハウス
前から何かと話題だった作品がアマプラ見放題にあったのでなんとなく視聴してみました。
評判なだけでなく、なんだか問題作扱いをされていた覚えがあるのだけど、見たら納得というか、これは色々言われますよねというような内容でした。
以下の感想は完全にネタバレですので、まだ未見の方は引き返してくださいますようお願いいたします。
今作は「地動説」をテーマにした歴史IFものです。「地動説」が異端視され、その研究者はみんな拷問、迫害される社会で、主人公のラファウ少年は一人の異端者に感化され、禁じられた「地動説」に魅入られていくという物語です。
そう、少しでも「地動説」について聞いたことがあれば「あれ?」と思うはずです。わたしもべつに大して知識があったわけではないのですが、ほんの少し聞きかじった事があったので違和感を覚えました。地動説って流石にこれほど酷い迫害はされていないんじゃなかったっけ?と。
つまり、もしこんな社会だったらというのを描いた「歴史IFもの」だったわけですけど、なるほど、これは危うい。まるで作中の異端者達のように、「やばくないかこれ…」というビクビクした気持ちで視聴を続けるという、物語と見事にリンクしたスリリングな体験ができました。(汗)
ショッキングな拷問描写そのものが「ダメだろこれ」感が満載なのは言うまでもないのだけど、なによりやばいのは、地動説への迫害というものが典型的な「俗説」を元にしていて、かつそれを助長するものなのだから、もちろん何も言われずに済むわけがなく、検索してみれば当然ながら怒られていました。専門家さま激おこである。(汗)
そんな危うい物語を一体どうする気なのかとハラハラ見ていけば、あの衝撃的な第三話にぶち当たるわけです。主人公は絶対に死なないなんて一体誰が言った?ええ、そうです、死んだのですよ、主人公のラファウ君は本当に死んだのです。余裕の笑みを浮かべながら、自ら毒を仰いでね…。
そして主人公交代、ラファウの情熱を引き継ぐ次の物語が始まるのです。ああ…なるほど。次の者達がどうなってしまうのかは、はっきり言って完全に見えているのですが、しかしこの人たちはどうやって次に託すのか、そこにはどんな想いを込めるのか?そんな風に見る者をグイグイと引き込むパワーがものすごかったです。
史実と違えぞという専門家さまの悲痛な叫びをよそに非常にドラマティックに、魅力的に展開していくストーリー。
しかしこれ、すごく感想を言いづらいというか…いやこれ自体はべつに、ただのエンターテインメントなんですよ。しかし、この作品についてなにかを言おうと思うと、まるでこちらの知的レベルを試されるみたいな、よく分からない緊張を覚えてしまうのはなんなのでしょう。
作中、バデーニさんというキャラクターが、15世紀というこの時代では一部の恵まれた人間以外が「読み書き」をできないことについて「それは良いことだ」と語るシーンがありまして、曰く文字とは重いもので、その扱いには素質と教養が必要であり、「誰でも簡単に使えるようになったらゴミみたいな情報で溢れてしまう」というのです。
今まさにゴミみたいな文章を書いている真っ最中のわたしには、それこそ火の玉ストレートというやつなのだけど、このセリフ自体は「そんなのは野蛮な選民思想だ!」と簡単に反論できますよね?しかし、そのバデーニが最期にやったことは、自身の言葉をひっくり返すようなことでした。だって、彼が命がけで後世に残そうとしたものは、今まで読み書きなどできず、完全に無教養だったオクジー君が初めて書いた研究書とも言えないただの日記みたいな文章だったのですから。
つまり、作者は決して無教養な誰かが書いた拙い文章を否定などしていなかったのです。そんな風に、一見ギョッとするようなインパクトで描かれる場面場面も、視聴を進めていけば、容易にひっくり返されたり、作り手のあらゆる思惑が見えてくるので、なんか脊髄反射で下手なことを言えないんですよね。(というか上記バデーニに関しては、シビアな発言ばかりしつつ、後にその発言の大半を翻しているという、ただのツンデレさんだった)
特に巧妙なのは、このお話を見る者がどのような反応をするかというのをかなり見越して、あらかじめそれへの回答を作中に仕込んでいるような節があちこちに見られること。散々言われている「地動説の迫害は史実ではない」という話も当然作者は分かったうえでそれ自体をどんでん返しとして仕組んでいた。
だから、たとえどんな反応をしたとしても、まるで作者の手のひらで踊らされているような気分になってしまい、なんとなく感想が言いづらい…という気分になるのでしょうか。
しかし、そのような巧妙さを駆使して描かれるドラマそのものはひどく単純で、ずいぶんと青臭く感情へ訴えかけるものばかりだ。
三話のラスト、微笑を浮かべて毒を仰いだラファウは異端審問官に対し「貴方たちが相手にしているのは僕ではない」と語る。それは人々の持つ知への欲求そのものだと。そうして主人公は死んで、引き継がれる「知への欲求(知)」が巻き起こす物語を「地動説(地)」と「異端審問(血)」という題材を使って描いていく。その三つの「チ」というタイトルへ繋がるテーマの構成も見事でして、確かにこれはフィクションなのですが、人間の歴史の核心的な何かを捉えているように思えるのです。
ただ、それらのテーマを描くためにかなり危うい橋を渡った事は、作者自身自覚があるはず。最終的にはただ一人の異端審問官の「勘違い」という話に落とし、さらには「夢オチ」ともいえる形で史実と齟齬の出ないようにまとめてしまった。
「科学と宗教の対立とその弾圧」という、典型的なイメージで見ていた視聴者はそうやってすべてをひっくり返されることで、その勘違いを悟り、では実際はどうだったのか?という「史実への興味」へと誘導されるという、そこまで含めて実に見事な作品だと思うのですが、しかしどうもネットの反応を見る限りでは、この危うい物語が刺激してしまった人々の反応は、残念ながら良いものばかりではなさそうです。
なんというか、最後まで見ても「地動説への弾圧」が史実ではなかったという事にすら気づいてなさそうな人も思ったより多いですし、あろうことか作中イメージで宗教批判まで始める人も多かったみたい。
わたしとしては、これは見る側の姿勢も問われる話だと思うのです。今作が素晴らしい作品として終わるためには、見終わった視聴者が「史実への興味」へと行き着かなければいけない。そうでないと今作はただ間違った歴史と偏見を広めただけになってしまうではないですか。だから我々オタクは「史実はこうだった」を教えてくれる専門家さまを決して馬鹿にしたりしてはいけない。わたしが目撃した中にはかなり高圧的で口の悪いオタクも居ましたけれど、もうちょっと謙虚になって欲しい。
そして専門家さまも、どうか作品は全否定せずに、お手柔らかにご教授いただけると嬉しいです。お願いいたします。(土下座)
最終章では初めて実在人物の名を持つキャラクターが現れ、現実の歴史と繋がることを示唆するように締めくくられる。しかし、ここでどうしたって気になるのは、あの死んだはずの第一章の主人公、ラファウが青年の姿で再登場することですよね。
メタ的な視点で彼を出す意味は分かります。作中ではラファウ君の知への情熱はあまりにもドラマティックに描かれ、第三章ではまるで神格化されたようにノヴァクの幻覚に現れる。「無知で盲目な宗教家たちに潰された悲劇の天才」そんなイメージの出来上がっていた時に、でも行き過ぎるとこういう面もあるかもね、とさらにそれをひっくり返してみせるという、そこまで描き切って作者の表現したかった「知の探求」だったのだろうと思います。
まあ、それはそうなんだけど、いや待て、そもそもなんで生きてる??と、作中ストーリー的にどういうことなんだ?という話です。これは色々と解釈ができるように描かれている以上、好きに考えて良いのだと思いますが、まず「本当に生きてた」というのだけは違いますよね、いろいろ計算が合わないので。
他は別時間軸説とかあるようですが、個人的にしっくりきたのは、四章のみが作中の現実世界で「一~三章までは現実世界の誰かが書いた物語」説です。そして、その「誰か」というのは、四章でアルベルトと話していた司祭のレフではないかと思うのです。
そう思う理由はいくつかありますが、まず一~三章までと最終章での同一人物と思われるのが、同じ顔をして別の経験をしているらしいラファウを除けば、レフしか居ないからです。彼がアルベルトに話した「友人を見殺しにした」という過去は、二章の内容と一致する。
なので、レフは彼自身の経験を多いに含めた半フィクションとしてあの「物語」を書いたのではないかな?と。なぜその話にラファウが出てくるのかといえば、もちろん告解室でアルベルトが話したからです。
「ポトツキへ一割」と「地球の運動について」という謎の手紙も、元が何なのかは分かりませんが、アルベルトとは違う意味であれにインスパイアされてお話に組み込んだんじゃないかな?とか。(そもそも石箱に入っていたというあの手紙、少年ラファウが書いたにしては違和感があるのはわたしだけ?なんであの研究から金銭的利益が生まれると思ったの?)
レフの「友人」は実在したけれど、死因やいきさつは少し変えているかもしれないし、他は誰が実在したのか、どこまでが本当だったのかは謎ですが、彼がそんな話を書こうと思ったのだから、かなり似たような何かがあったのだろうと思います。歴史の闇に葬られそうな体験を「物語」という形で書き残そうとしたのかも。
というのがわたしの想像。第一話の冒頭がレフのナレーションから始まっていることを考えても、彼がなにかすごく重要な位置にいる人物なのは間違いないとは思います。アルベルトならまだしも、レフだというのはやはり意味深に感じる。
そしてその言葉も。「この世のすべて」というのは、彼自身が求めたものだったのか、それとも「友人」か、他の「誰か」か?公には言えないけれど、どうにかして残したかった、何かとても切実で深刻な想いや経験があったのではないかなと。
作中で彼はあまり目立ちませんが、実はすべてを知っていて、静かに人々を見下ろしているこのお話の神様的な視点の人物、つまりは「作者」だ、というのは、わたしにとってはすごくしっくりくるのだけど、どうですかね。
この作品そのものが歴史IFものでしたので、さらに「どこまでが本当か」を曖昧にしてみせる形として、レフという唯一の当事者による劇中劇だったのなら、構成としてはより美しいのではないかと思うのです。
最後に、今作の視聴中ずっと頭を離れなかった作品がある。
「秋山瑞人」を知っている人はあまり多くないと思うし、知っていたとしても挙げるタイトルはアニメ化もされたらしい「イリヤの空」かもしれない。ぶっちゃけわたしはイリヤはちょこっと読んでやめたのだけど、それ以前の作品、特にこの「猫の地球儀」が大好きだった。
宇宙に住み「電波ヒゲ」でロボットを操る猫たちのお話という、完全なSFファンタジーなので専門家さまを怒らせる余地は全くないのだけど、そのモチーフは明らかに迫害される地動説論者なのです。作者曰く「ガリレオ・ガリレイVSピーター・アーツ」という物語。
作者はこれを描くためにガリレオについて調べ、そのいきさつが典型的なイメージとはだいぶ違ったことを知りながらも、お話としてはもっと誇張して描いている。
扱う題材だけでなく、根本に流れるドラマ的にも「チ。」とは非常に近しいものを感じまして、場面場面で思い出してしまいました。ご興味ある方はぜひ手に取って欲しい。